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[1999/2/3〜1999/3/13掲載]●水門の名前は撮影時に必ず確認すべき項目のひとつである●そんなものどうでもいいではないかと言う向きもあろうかと思うが、わたしはこのようなものの名前を確認しないと気が済まないたちである。まあ中には接近できない水門もあるので、撮影には高倍率の単眼鏡を必ず持ってく。何らかの名札をつけてさえいてくれれば、対岸にあってもそれで名前が判別する。読めない場合はわざわざ遠回りしてでも読みに行くことすらある●しかし、中にはどうしても名前が判別できないものもある。プレートがとれてなくなってる!という情けない例もあるが、地方によってはどうも水門に名前をつける習慣がないところがあるようで、そんな場所では出くるすべての水門にことごとく名前が示されてなくて驚かされる。●名前を付ける付けないは対象との距離感の違いによって決まることもあるだろうし、ひとつしかないものは固有名詞と一般名詞の区別がないってこともある。このカルチャーショックに近い困惑をわたしはよく犬の命名の習慣にたとえる。「この犬、何て名前?」「名前だって?そりゃただの犬だぜ!」 |
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[1998/10/28〜1999/2/2掲載]●人間の造ったものを見るのが面白くてたまらない●名古屋市の南西隣、海部郡とよばれる地域にはなぜ村がごろごろあるのか、以前から不思議に思っていた。十四山村とか飛島村とかいう村が大名古屋のすぐ隣に存在するのはなぜか、なぜ名古屋都市圏に組み込まれて都市化してしまわないのか●9月に歩いてみて理解できた。干拓地なのである。近代以降の干拓地なら名古屋市の工業地帯になってたのだろうが、江戸時代(とそれ以前干拓地なのでバリバリの農業地帯のままで残ってしまったに違いない。というより標高がマイナスなので、安心して都市化ができないということだ。実際ポンプで常に排水しないと川が逆流する。何もしないと土地そのものが地図から消えてしまうことになる●科学技術が原因で何か不都合が起きたときに、ともすると科学技術そのものを簡単に否定してしまう論調を耳にすることがある。しかしそのような批判ができるような文化が成立しているのも、その土台に文明としての科学技術という地盤があるからこそである。そのことを忘れた(知らない)感情的な批判は、海面より低い土地なら無理して維持せずとも海に沈めてしまえばいい、と言っているのと同じことなのではないか。 |
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[1998/8/28〜10/27掲載]●やはり洪水は恐ろしい。北上川の撮影を終えて8月27日、東北新幹線で東京へ帰った。途中、氾濫している那珂川水系余笹川の真上を通過する。それはもう凄いことになっていた。徐行する新幹線の車内で、日本の風土ってやはり結構ワイルドだなとか東北新幹線の高架橋というのは結構ハードにできてるなとか、傍観者であるのをいいことに能天気なことを考えてしまう。高架の下は地獄のようになっているというのに、こちらは冷房の効いた快適な車内。この状況の落差は申し訳ないほどのものだ。だからといってその場のわたしには何かを考える以外になす術がない。被災者の皆さまには心よりお見舞い申し上げたい。今回の記録的集中豪雨は一連の異常気象由来のものと思うが、続いて台風シーズンでもある。冗談で水門を語れない季節がやってきたってことだな。 |
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[1998/8/5〜8/27掲載]●ひたすらに水門を訪ねて回っている。最初はこんなもの近所だけでやめておこうと思っていたのだが、信濃川や淀川にも遠征してしまったらいよいよ止まらなくなってきた。しかも水門だけでなく河川構築物のすべてが撮ってくれとせまってくるように思える。最近はヨーロッパの運河が呼んでいるような気がしている。それも田園を縫うイギリス運河の旅、なんてしゃらくさいやつじゃなくて、どでかい貨物船がライン川から山越えしたりしてドナウ川とかに乗り入れちゃうようなハードコアなやつ。そう、いつかはパナマやスエズにも行かねばなるまい。まるで聖地巡礼。そういえば火星にも運河があるらしい、というのを子供の頃、宇宙と天文の図鑑で読んだような気がするのだが今はそんなこと言わないのか。 |